2017年度全国大会(宮城総文)劇評

文責 木村光寿(緑風冠高校顧問)

煙が目にしみる(千葉県千代立八高等学校)

上演一番目、千葉県立八千代高等学校の「煙が目にしみる」は、堤泰之氏の手による既成作品。火葬場の待合室で、これから火葬される二人の幽霊と、その家族が登場人物。もうこの時点で、観客には見えるけど家族には見えない幽霊という存在や、家族内の死者・喪失、過去に伝えたかったけどできなかったことなど、魅力的な設定が溢れてきて、見事な世界設定だと思います。

そんな素敵な作品を受け、舞台上演を果たした八千代高校。銀杏の木を背景にした待合室の空間で、役者それぞれに一生懸命に演じていたと思います。自分達よりも基本的にやや高めの年齢設定がされている登場人物を、工夫や熱意で演じる姿が印象に残っています。ただ、やはり全体的な軽さも感じなくはありません。

火葬場にしてはやや綺麗すぎる壁面や、登場人物全体の演技が特に終盤、ハードルを乗り越える場面に於いてためがなく、感情の変化があっという間にできてしまうのは、若さなのかという感じがします。音響照明もそれに伴ってわりと頻繁に変化するのですが、個人的にはいまいちついていけませんでした。もっとそこは、自分達の演技と観客を信じて欲しいように感じます。

コンクールで既成作品を上演するのは、今大会では全12校の中で2校だけ。(他に1校が潤色作品)正確な統計は知らないのですが、おそらくコンクール全体でも、創作脚本の比率が相当に高いだろうなと気がします。その中にあって既成作品を上演することの意味合い、あるいは評価とはどうあるべきか。そんなことを考えざるをえません。

それは最後には結論のでないことなのかもしれませんが、自分としては、既に存在する作品に対し、今生きている自分達が上演する必然性、自分達なりの解答があるかどうかではないかと思います。

そうした意味で、上演速報にあった、八千代高校の生徒達がこの作品における死を幸せなものであるとしている認識は非常に重要なことだと思います。この作品のように最後には思いを伝え、家族がそろって穏やかな死を迎えられることはとても幸福なことで、なかなか難しい。その数はきっと、今後減ることはあっても増えることはないだろうという悲しい予感は、高校生の中にも、むしろこれからを生きる高校生だからこそ強くあるように思いました。彼らがこの作品を演じ、どう受け止め、そのことが今後どのようにつながっていくのか、それもまた、大事なことだと思うのです。

 

流星ピリオド(埼玉県立秩父農工科学高等学校)

単管パイプとパネルで組みあげられた黒一色の舞台上、どうやらそこは、インターネット上のSNS、高校生達にグループによるチャットルーム(LINEグループ)を表現しているらしい。場面によりその抽象舞台は現実世界の部屋であったり屋外の展望台であったり自在に変化するのですが、基本的にはそのチャットルームに集まった高校生達の会話で物語が進行していきます。想像力の広がる高い完成度の舞台装置に様々変化する明かり、ラストの星空の使い方など、高い技術を感じました。そんな舞台空間で繰り広げられていく物語は、高校生らしい明るさを最初は見せながらも、じょじょにグループ内に参加してこない引きこもりのメンバーのことや、その引き金となった、過去に死亡したグループの一人のことにフォーカスしていきます。

SNS、もしくは電子メディアによる間接的なコミュニケーションというのは、高校生も含め現代社会に於いて随分興味深いテーマであるのですが、舞台表現ではなかなか難しく、そこをどうクリアしていくかは色々な作品で試みられています。その点で本作は、むしろ全く単純に普通の身体的・直接的コミュニケーションによって抽象的に表現しており、かえって斬新な印象を受けました。台詞、効果音、スタンプを表す小道具など、こういった方法での表現もひとつだなと新たに教えてもらいました。その反面、これではSNSの、身体の不在性・非接触性のコミュニケーションという特徴部分が説得力をもたないようにも思われます。

物語はやがて、SNSにおける様々な事象、匿名性や現実での想いの伝達、グループ内の装った関係性など、死んでしまったメンバーの過去が明かされていく中で触れられていき、その構成力は確かなものがあると感じさせられました。その構成の延長線上で、最後に衝撃的な場面、実は最後まで疎外されていた(と感じている)女子のコミュニケーションへの絶望を表現した自殺でこの作品は幕を閉じるのですが、終演後、会場の多くがざわめきに包まれていたその空気は狙い通りのものだったのでしょうか。

余談が過ぎるのですが、自分の周辺でも見聞きする、高校生にとってのネットも含んだコミュニケーションの切実さというのは、ほとんど病理的なものに近頃感じられてきています。現実であれSNSであれ、接触というのは衝突と誤解とそれによる絶望を伴いながら、それでも必要だから進んでいくしかないもので、むしろ本作における「誰ともつながれない絶望」とか「伝えることの価値と不可能さ」とか、そんなことは生きていく上で前提だろうとよくわからない怒りのような感情が自分の中にあります。この感情はきっと、創作で表現するしかないようなもので、そういった意味でSNSによるコミュニケーションは、やはり自分にとっても大きなテーマなのだと感じているのです。

 

 

どうしても縦の蝶々結び(徳島市立高等学校)

今年の全国大会では照明や音響技術など高い技術を持った作品が多く、それらを利用して観客を世界に引き込んでいく作品が目立ったように思います。その中にあってこの作品は、舞台装置こそ圧巻の出来栄えでしたが、基本的には時間・空間を飛び越えず、超常現象も特別な人間も登場せず、現実にありそうな空間で普通の人物が物語を進めていく、静かな演劇と呼ばれるものに近いものを感じました。こうした作品は個人的によく触れる機会があるので親しみがあるのですが、現実をいかに切り取り、演出し、提供してくるかということ、「今自分に見えている現実の世界」を伝えることが重要かと思います。

本作は学校の事務室という、近いけれども微妙に高校生の日常とは離れた空間を舞台に、半年前まで高校生だったけど半年の臨時任用で事務職員となっている女の子を主人公に据えた、「ちょっと想像力を伸ばす現実」を取り扱っていて、そこから高校生の貧困という問題を核にした物語を進めていました。この設定がまず、とてもかっこいいというか、自分から少し離れた部分で自分に見える世界(問題)を眺めるというのは、演劇のとても重要な要素だと思います。高校生の貧困を描くならその状態の高校生や、その周囲を描こうとしてしまう作品づくりをしがちなのですが、そこから一歩引いたこの設定は、多様性や客観性を持たせる事ができる、とても優れたものがあると思います。が、同時に、この設定が後々この作品を苦しめることにもなったのではないかと思うのです。

物語は、家庭事情で進学を諦め臨時の事務職員となるが何事もうまくいかず、諦め気味の日々を過ごす女の子と、彼女を問題視し、指導する先輩事務職員の衝突を中心に序盤は進んでいきます。その彼女が、学年費の支払いができず、学校を諦めようとしている生徒と出会うことで、自分と同じものを感じ、彼女を救いたいと行動していく中で現在の貧困という状況に置かれている彼女達の姿を伝えていくという作品かと自分は受け取りました。

そしてその試みは、見事に成功していると思います。前述した状況設定や人物配置、物語の展開など主題を表すためによく計算された的確なものがあると感じました。

様々な場所で本作の感想を聞くにつけ、この主題を扱った本作についての感動や評価の声を耳にすることができました。優秀作品に入らなかったことを惜しむ声も少なからずあるようです。

愚考するに、この作品の問題点を上げるとすれば、この優れた設定そのものが孕む部分にあったのではないかと思います。このような静かな演劇(厳密には違いますし、ひょっとしたら作者の方はまったくそのような意図はないのかもしれませんが)は構造上、どうしても時間や空間の制約がでてくるので観客への情報提供が難しくなります(そこをどうするかが作家の技術でもあるのですが)そうした「貧困」という情報・状況を伝える仕掛けあるいは伏線は、この作品の場合、退学しようとしている生徒、コーヒーや遅刻、タイトルにもある蝶々結びができないというところにあるかと思うのですが、それを説明するために時間と空間を主人公の学生時代に戻す場面が複数回出てくるのは、繊細なタッチだったとはいえ、個人的には残念に感じました。現在の時間軸で、主人公とやめようとしている女の子の交流、あるいはその担任の先生などでもっとそこは勝負できなかったか、主人公が彼女に執着を見せる説得力も含めて、そう思うのですが、事務室という空間設定、あるいはやめようとする生徒の設定(もう一人の自分)から、そこを中心に描写することが難しかったのではないかとも思います。

もう一点、この作品はつまるところ、「貧困という状況が明かされていく物語」で、その姿はとても感動的であるのですが、こうした「現実に解決していない問題について物語の中でどう決着をつけるか」というのは作品の完成度はいうまでもなく、大げさに言えば作家の社会的責任にまでかかわってくる問題だと思います。

物語の終盤、「頑張ってもしょうがない」「結果を出せた人が頑張ったとみなされる」というどうしょうもない現実を表す主人公の台詞に対し、先輩事務員が「頑張らないなんて怖くていえない」「例え百万分の一しか可能性がなくても、それでも、何事も全力でありたい」

という対立軸を表現する優れた場面があります。そこへ、退学手続きに来た女子生徒とその家族が現れます。彼女達に向かい、普通のことができないって辛い、夢をあきらめない、自分のようにならないで、という本音を話す主人公。

事務員には何も力になってあげられないし貧困状態にある家庭は仕方がないし、どうしょうもない現実の視点を忘れることなく織り込みながら、それでも去りゆく生徒に対し話そうとする彼女の言葉は、ある種の願いや祈りのように感じられました。その姿はたしかに美しいけれども、そこでそれにすがるしかないのか、ないのならばそれはもっと悲劇的で絶望的な匂いがしなくてはいけないのではないかという気がしてなりません。

そしてそのことにより、最後の場面、事務職員としての自分を受け入れようとする姿や、訪れた女子生徒の蝶々結びを縦から正しいものに直してあげる描写は、あまりにも急すぎるし、都合が良すぎる。物語の最後の部分を、先程の情報提供とは次元の異なるファンタジーで締めくくるしかないのか、無責任な一種のデウス・エクス・マキナのように感じられるところでした。

別に演劇活動から社会運動を始めろというつもりなどはまるでないのですが(いや、そのような時代や要素も演劇にはあるのですが)現実の問題が明かされていく物語は、本当に一種の覚悟が求められると個人的には思います。そのことに怯んで創作活動をためらっていた過去の自分は、「当事者と仲良く座ってその舞台を鑑賞できること」という基準、そして「その表現創作に意味があると信じること」を教えてもらってからは、随分楽になったような気がしています。

翻って、そのようではない作品が実は多数を占めてきたかもしれない現在の状況の中で、本作のような作品は本当に大切だと思います。自分達が表現活動として素晴らしいことをしたのだという誇りを持って、また新たな作品作りに取り組んでほしいと願っています。

半径5メートルの世界を描く作品は本当に楽しくて優れていて、それを大量に生み出してしまった世の中に安心と諦観を覚える自分のようなものから見れば、ここまで緻密な作品を作り上げた高校生の存在は、大げさに言えば尊いような気さえするのです。それは困難であり痛みを伴う答えのない絶望的なことなのだけれども、それでも。その表現創作にはきっと意味があると信じていてほしいと、勝手に思っているのです。

 

ストレンジスノウ(宮城県名取北高等学校)

開催県の宮城代表として名取北高等学校が上演するストレンジスノウは、自分達に近しい状況であろうところの、演劇部室で高校生達が繰り広げていく物語となっています。というと、ありふれた日常的な高校生活を描いた作品と思われがちですが、本作では白い壁をコの字形よりやや広げたどこか無機質な舞台空間に、登場する演劇部員全員が共通した独特の発音で会話していく(方言かと思ったのですが、そうでもなさそうです)ことで、日常でありながらそれにとどまらない、なんとも不思議な世界を作り出していました。

その世界の中で、部員の一人がアイドルとして活躍しているということが話題の中心となっていくのですが、それはどうやらその子の妄想であり、部員達はそれをなんとか解決しようとする、というのが大まかな話の流れとなります。

なんとか彼女の目を覚まそうとする部員と、その妄想にこだわり続ける彼女の交流が進んでいくうちに、じょじょに彼女の妄想がただアイドルに憧れるといっただけではなく、彼女が過去の東日本大震災で経験した妹の死と、妹を犠牲にして生き残ってしまったというサバイバーズ・ギルトからの回避行動であることが示されていきます。やがて彼女と部員達の対立は最高潮を迎え、最後に部員達が彼女に真実を必死の思いで告げ、自身の体験をも語ることで、彼女を現実と向き合わせるところで物語は終りを迎えます。

観劇した直後、この物語の展開を巡っては大きく賛否が分かれるのではないかと感じました。様々理由はありますが、一番には被災者の回避行動に対してこのような解決をつけてしまうことの是非にあると思います。現実における衝撃的な出来事からの回避行動をとることに対し、明確な否定をすることは非常に危険なことであるし、実際の被災者に対してこうした解決を迫ることは、けしてあってはならないことだと思うのです。

ただ、演じる高校生たちはそういった視点が抜け落ちていたわけではないとも思います。聞くところによると、演劇部員達はこの劇を演じることを「怖い」と感じたそうです。それはおそらく、震災の被害に直面したのではない状況で、こういった作品を上演することから生まれた感情なのでしょう。そのことに気づいて、それでもこの作品に取り組むのは、とても勇気のいることだったのではないでしょうか。そう考えると、この展開は様々な問題があるのかもしれないけれども、それでも彼らの若さ、強さを個人的には感じるところです。そしてまた、震災から年月が経ち、徐々に復興が進む中で直接の当事者ではないけど他人でもない、そのような位置に彼ら彼女らは立っているのかもしれないと思わされました。

タイトルの「ストレンジスノウ」と、劇中で女の子が回避行動の対象として選んだアイドル「篠原ゆき」と、最後の場面で登場人物が全員で思い出し眺める、被災の時に目にした雪と。きっと、そこに込められた意味は、彼らのそうした微妙な立場によるところのものだと思うのです。

 

白紙提出 (茨城県立日立第一高等学校)

オープニング、華やかな明かりとポップミュージックにのって5人の女の子がグループダンスをしている、と思いきやダンスが終わってみるとそのメンバーの中心にいたのは、女装した男の子でした、というなかなかインパクトのある始まり方をする作品。照明が地明かりに切り替わると、そこはその男子高校生の部屋となり、そこへ友人達が協力して夏休みの課題をするためにやってくる(と同時に遊びに来る)といった物語が進んでいきます。基本的な展開は明るく素直で、エロ本や女装の道具など、彼が人に知られたくない秘密を隠そうと奮闘し、そこへ友人達が様々な関わりを見せていくといった、正統派シチュエーションコメディに感じました。やがて全員に知られてしまう女装の秘密についても、衝撃を受ける男子高校生に対して、「それぞれ違う個性がある」という言葉や、変わらずに暖かく接してくれ、あるいは自分の秘密をはなしてくれる周囲の友人の存在が、作品全体を最後まで暗くすることなくまとめていたかと思います。

それにしても、この作品の根幹にある、秘密が明らかになって周囲から「気持ち悪い」と思われることも、それを乗り越えていくようとすることも、高校生にとってはそんなに大変なことなんだなと思うと、高校生である彼らの生活って本当に息苦しいんだなと思わされるところです。そして、この作品はそんな息苦しい空気に対し、明るい笑いによってなんらかの対抗策となっているのではないか、そんな気もしたりするのです。

 

HANABI  (沖縄県立向陽高等学校)

個人的に九州ブロックは全国大会の中でも激戦区という印象があり、出場してくる作品はどれも本当に素晴らしいものであるという印象があります。そうしたわけで、始まる前から今年の代表は沖縄県からの初出場校、原作を潤色させたものということで大きな興味を持っていました。

そんなHANABIは、舞台装置こそほとんど裸舞台ですが、照明や音響、衣装への熱の入れようと、役者たちの身体表現に支えられて、力強い印象を与えてくれました。

物語としては、文化祭でクラス劇をすることになった高校生達が、最初はやる気がなかったものの、紆余曲折を経て演じることの楽しさを理解し、クラス劇を成功に導いていくというものでした。随所に明るい笑いが挿入され、観ている側も素直に楽しめる青春群像劇といった印象を受けました。不勉強で原作の「文化祭大作戦」は未見なのですが、やはり青春を取り扱った作品ということで、向陽高校の生徒達が演じたかったであろう世界は十二分に表現できていたのではないでしょうか。上演速報には舞台に立つまでの様々な苦労も語られていましたが、きっと、そういった困難も含めて、彼らはとても楽しく作品作りに取り組んだのだろうなと感じさせられる明るさを持つ作品でした。やや難を言えば、制限時間の都合もあるかと思いますが、最後にそれぞれの課題・伏線が回収されハッピーエンドを迎える収束の場面展開がバタバタと慌ただしく、また劇の端々に雑なところを感じてしまうことがあったかと感じました。がそれも、群像劇として登場人物それぞれの青春を演じたかったゆえ、細かなところよりも演じることを精一杯楽しむ姿を力強く打ち出されてしまうと、仕方ないかなと思ってしまう、そんな強さを持ち合わせた作品だったかと思います。

 

警備員林安男の夏 (明誠学院高等学校)

リアルでありながら可動式の旧校舎教室を再現した舞台造形、登場する地縛霊の衣装、メイク、オープニングの不気味な空間・エンディングの花吹雪を染め上げるLEDや劇中のストロボ、グラウンドのライトを再現した照明機材など、素晴らしいスタッフ力を誇る上演作品です。今大会の上演校はこうした裏方技術の高さを感じさせる作品が多く見られましたが、その中でも間違いなくトップクラスに入るものかと感じました。それゆえにこそ、いくつか疑問符がついてしまったことも確かで、桜吹雪は吹上ではなく振り落としのほうが良かったのではないか、とか、同一のBGM多用には違和感を感じるとか、ストロボを客席から見えなくしておく仕掛けがほしかったとか、そのような感想を抱くところでもありました。

基本的に二人芝居で、登場するのはタイトルにもある警備員の林安男と、彼が警備する高校の教室に現れる地縛霊。二人の男子高校生が、そんなユニークな役柄の設定や舞台設備に埋もれることなく、パワフルな演技で存在感を発揮し、物語を引っ張っていきました。      ただ、そうして展開されていく物語の中で、明かされていく地縛霊の「自分が何者で何故死んだのか」という最大の課題の必要性や、それを受けて警備員の林が自分の家族に関係していると判明した上で自分の状況を振り返る強引さが気になったことも事実です。それらはまとめると「無くした青春を思い出す」というこの劇の主題になるのかもしれませんが、主題を表現しきることに全力が注がれている中で、その演技や演出には強い熱意と技術を感じるものの、そうした整合性の面で今一つ乗り切れなかった点が惜しいと感じました。

 

 

-サテライト仮想劇-いつか、その日に、   (福島県立相馬農業高等学校飯館校)

素舞台の中心に、いくつかの荷物と机を配置した簡素な舞台上。それらの四方に配置された小さなLEDで区切った狭いスペースが、選択教室という空間を立ち上がらせています。

非常にシンプルで美しいこの舞台構造が、繰り返すようにおしなべて舞台装置の高い技術を感じさせた今年の全国大会作品群の中で舞台美術賞を受賞するというのは、演劇の本当に奥深いところだと思います。

そういった空間で繰り広げられる物語も、演技も、出場校の生徒達の状況をストレートに表した、素朴なつくりでした。サテライト校という、震災時の臨時的避難措置として建てられた学校が、復興にともない被災地へ戻っていく、その状況におかれた生徒達の状況が中心に据えられています。脚本を読むとその状況に対する強いドラマ性を感じさせようとする台詞が並んでいるように感じるのですが、当事者である生徒達は、どこまでも素朴に、技術ではなく真摯な態度で演じているように感じました。おそらく、彼らよりもこの脚本を上手に表現することができる学校は、いくつもあるでしょう。けれども、彼らよりもこの脚本を誠実に表現することができる学校は、ないのではないかと思います。これもまた、演劇の一つの奥深さかと思います。勿論、それが全てではないのですが。

さて、物語はサテライト校が消滅するという、将来訪れるであろう状況で、その喪失に失望しあるいは抗おうとし、やがてそれでも過ごした日々への価値を見出しながら感謝を告げる、生徒の成長していく姿を描いていきます。

復興の中で見落とされがちな、こういった切ない思いを抱く彼らの状況に対し、震災について直接語る術のない他人事の自分は、安易に共感を抱くことが正しくないような気がしています。むしろ自分の中に強く残ったのは、劇の前後に配置された、自分達を巡る状況を俯瞰する彼らの言葉でした。

「だからあたしは、想像する。(中略)もし突然「その日」が来たら、きっと私は耐えられない。だから今から、少しずつ心に傷をつけて、心を慣らしておきたい。自分で傷をつけて、いつか来る痛みへの、準備をしておきたい」

なんと聡明で悲しくてしたたかでかっこいい台詞であることか。この思想(といっていい台詞)は、本当に素敵だと思います。そして、その台詞を紡ぎ出せる強さを持っているのならば、きっと彼らは、どんな時、どんな場面でも、生きていけると信じられるのです。

 

アルプススタンドのはしのほう(兵庫県立東播磨高等学校)

はじめて本作を見たのは昨年の近畿大会。その後、芸術座での優秀校公演、そして今回と3回目の観劇になるのですが、やはり始めてみた時の衝撃的な印象が変わることはありません。よく構成された話の展開や台詞、それでいて共感しやすい主題を巧みに取り入れた、本当にウェルメイドな作品だと思いました。またその作品全体に流れる爽やかさから、おそらく優れた若い才能の作者であろうことも予感させられました。聞けば、やはりこの作品は、元高校演劇で活躍した高校生が、教職についてほどもなく作り上げたものだということです。

野球場のアルプススタンドで、熱が入らない応援をする演劇部員の女の子2人と元野球部員、それを少し離れたところで批判的に見る同級生の女の子。彼らの一生懸命になれない状況を、野球に頑張る姿を通して、一生懸命になっていく姿を描いた本作は、その明確性、完成度、それを支える演技、どれも最優秀作品に選ばれるに足るものであったと思います。

ただあまりにも良く出来すぎていて、個人的にはやや飽き足らないところがある作品であることも、最初の上演時から変わらぬ印象として持ち続けていることも事実です。野球の進行があまりにも物語の展開に都合よく行き過ぎている(勿論緻密な計算の上ですが、全ての展開を都合よく進めなくても良かったのではないかという気がします)また、全体に流れる爽やかさの影には、もう一つ夏らしさや暑さ、演技のパワー、ノビを感じられないところがあることも否定できません。とても上手くきれいにまとまっているのだけれども、そこからはみ出たり、あるいは突き抜けてくれる何かの不在が、この作品をそのように感じさせてしまうのではないでしょうか。そして、このようなことをいうのは僭越だと重々わかっているのですが、全国の最優秀に輝く作品は、完成度とエネルギーを、高いレベルで両立させたものであってほしいと思わずにはいられません。今年の全国大会については、そういった作品が登場することがなかった、ように思います。そうした意味で圧倒的な完成度を誇る本作が最優秀に選ばれたことに対し、全く異論はないものの、手放しで喜んでいるわけにはいかないなという思いも、否定できないでいるのです。

 

彼の子、朝を知る(岐阜県立加納高等学校)

舞台上にあるのは、櫓とそこへ登るための階段のみ。けれども、バックサスやLED、展開に応じて様々変化する照明を利用し、想像力の広がる抽象的な空間を作り上げています。また、そこで演じられる役者たちの演技も、丁寧な訓練をしていると感じさせる身体と発声、豊かな表現力にあふれていて、一つ上のレベルにあると感じさせられました。

そういった抽象的な空間で繰り広げられるのは、ダンスや笑いのエンターテイメントを交えながらも、実は深刻な内容。確信犯的な劇場ブザーの音を皮切りに、大勢の「誰か」の声の中から、まだ目覚めていない「真梨子」とまだ生まれていない「長月」の二人を中心に、朝(であると同時に、あした)の意味を探っていくという物語です。その過程は将棋や花火など華やかでありながら、どこか戦争の匂いを漂わせる場面場面を超えて、やがて自分の家族、先祖の紹介をしていきます。そのことにより、ここにある「朝」は「あたらしい朝」ではなく、「あったらしい朝」であるということにつながっていきます。私達にとって平凡な日常の朝はあるいは明日は、実はなくなってしまうものであるということの強い実感が、ここにはあります。自分達にとってありふれた「あたらしい朝」は、普遍的なものではなく、先祖にとって、あるいは現在でも戦争、テロによって「あったらしい朝」になりうる。表現活動に対し、とても熱心で楽しくて賑やかな高校生の彼らが、それでも戦争に手を伸ばそうとする時、それは花火の音であったり、先祖の体験であったり、修学旅行先のフランスにおけるテロであったり、そういったものにならざるをえないのではないかと思わされます。そしてまた、その手の伸ばし方は、自分達の手が届く距離からファンタジーでけして離れることのない、実に誠実なものであると感じるのです。

惜しむらくは、作品全体が「気づき」の範囲を超えなかった、そしてその気づきの結果、その状況に置かれた人間の心の動き様が、戦争に対する怯え・恐怖の形で提出されていたことにとどまったことかと思います。それは技術の高さに支えられて抽象的な美しさを表してはいるけれども。自分たちの世界から残酷なものへのつながりに気づくことができたのであれば、その先にはそこでどう動いていくか、どう動いてしまうのかを見たかった。きっと気づいたところで、争いをなくすことのできない私達にはどうしょうもない現実が広がっているのだけれども、気づいたものがそれだけでは、最終的な着地点は恐怖・単なる戦争反対や絶対悪といった結論にしかいきつかないように思います。それは誠実ではあるけれど「他人事」の立場からの表現の限界なのかもしれません。もしこの作品が、今現在手にした「朝を知った」という「気づき」の上に、過去ではなく現在進行系の、それでもどうしょうもない現実が描ければそして伝われば、この作品は最優秀であったと個人的には思います。

 

学校で何やってんの(北海道北見緑陵高等学校)

自分達の学校を紹介するオープニングから、放送室に残って文化系クラブの取材を行ってる高校生達の様子が描かれる物語が始まります。

この放送部室のセットがよくできていて、骨組みが見える舞台後ろの壁はその向こうの人物の動きを伝えるし、さらに可動式になっている壁を黒子役がどんどん出ハケさせることで、一瞬で空間を飛び越え、部室内にとどまらない自由な表現を可能にしています。

さらにいえば、こうした表現を黒子役も含めた出演者全員が観客にみせるものであることを前提に演技していることがとても素敵だと思いました。その動きや構造をメタ的に認知することでこういった「お約束」を、笑いに変えて納得させてしまう手法は、演劇を本当に楽しんでいるな、客席を想定した作品作りをしているなと思わされ、またそれを計算して作り上げたその構造が大変よくできているとまず感じました。

メインストーリーも放送部の女の子を中心に、明るくのびやかに進められて、観客を飽きさせることなく一時間演じきっていたと思います。インタビューの中で、それぞれの文化部に所属する者達の状況が語られ、それによる衝突と乗り越える姿が、部室内に閉じ込められるといったトラブルの展開を通じて、描かれていました。ただ、やはり観客とともに楽しむ、観客を楽しませるエンターテイメントの要素が大きくなった分、登場人物の抱える課題、ドラマ性の部分の描き方にやや物足りないところが見られたことはあるかと思います。特に最後の場面、吹奏楽部の生徒が抱える問題を告白する部分が上演ではカットされてしまい(トラブルなのか時間のせいなのかわからないのですが)、最後の場面を締めくくるエールの意味合いが、今一つつかみづらいものになってしまったことが残念ではありました。

 

Love&Chance! (埼玉県立新座柳瀬高等学校)

最後の上演となる新座柳瀬高校の作品は、一八世紀フランスの劇作家、ピエール・ド・マリヴォーの「愛と偶然の戯れ」を翻案したものということで、他の作品とはずいぶん雰囲気の異なった作品となっています。親が決めたお見合い相手の本性を探るため、男女が互いに自分の召使と入れ替わってめぐり逢い、互いに勘違いしたまま恋心を抱いていく様を描いた恋愛コメディ。身分の取り換えから生まれる勘違いの面白さ、その中で揺れる恋愛心理、紆余曲折を経て最後に真実が告げられ幸せな結末を迎える展開など、さまざまに古典作品らしさを感じさせる要素にあふれていて、見る側を安心して劇世界に誘い込んでくれます。

恥ずかしながらマリヴォーの原作を読みこんだことがないので、翻案の巧みさなどに言及することができないのですが、60分の制限時間の中で、よくまとめられた、総じて見る側にわかりやすく親しみやすい作品となっていたと思います。最後の大団円にいたる展開がやや駆け足に過ぎてしまうきらいはありますが、それでも最後の照明を利用した美しい構図が、鮮やかな印象を与えることできれいな締めくくりとなっていました。

上演にあたってのメッセージで触れられていましたが、この劇の、新座柳瀬高校の主眼は「幕開きから幕切れの瞬間まで、お客さまに楽しんでいただく」こと。基本にして究極の一つですが、本当の意味でそれを突き詰めていくとなんと難しいことかと思わされます。本作はその言葉通り、役者それぞれの安定した演技、衣装やシンプルながらも随所に仕掛けを凝らした舞台装置、場面を区切る明かりの使い方など、その究極目標に向かって着実に効果的に、それぞれが役割を発揮していました。上演順というのは全くの運であるとはいえ、こういった本作が最後の上演であったことに、ある種救われた観客も少なくなかったのではないでしょうか。

やや気になったのは、こうした古典作品と役者達との距離感についてでした。高校生の彼らにはかけ離れたところにある身分の違いに対する意識やその中での恋愛、人間性についての鋭くかつ持って回った独特の言葉の数々が、どこまで忠実に役者それぞれになぞられていたかはやや疑問符がつくところではあります。個人的には、随分脚本を役者側の感覚に寄せてきているな(それは必ずしも間違いではありませんが)といった印象を受けました。

言うまでもなく、そんなことを抜きにしても、普遍的な恋愛をめぐる人間心理や様子、さらには取り換えという状況による面白さは伝わるわけで、一時間の作品の中であくまで主眼は「楽しんでいただく」ことなのだから、この作品はとても高い完成度で、その目的を達成していた、優れた演劇作品だったといえると思います。

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