2016年度全国大会(ひろしま総文)劇評

文責:木村光寿(緑風冠高校顧問)

上演一番目、広島市立沼田高等学校  「そらふね」
戦後まもなくの広島に生きる、姉妹の生活を中心とした物語。まず OPは、幼い姉妹に対して母親が「お話」をしてあげる所から始ま ります。この「お話」が空をとぶ船「そらふね」へと発展していく のですが、その場面は壮大なミュージカルを思わせるつくりでした 。その後は大きく変わり、しっかりとつくりこまれたセットのなか で姉妹の生活を丁寧に描いた物語が展開されていきます。 やがて話は戦争の傷が暗い影を落とす様子を見せていくのですが、 その折々でOPのお話の世界(そらふね)が登場し、物語を絶望か ら救う役割を果たしていると感じました。この表現された世界は音 、光、身体表現など、本当に高い完成度だったと思う反面、 普段の生活における絶望や衝突の構成がもう少し丁寧であればと 感じる部分もありました。

上演二番目、青森県立青森中央高等学校 「アメイジング・グレイス」

自分のようなものでも知っている、大変有名な青森中央の畑澤聖悟 先生による作品。素舞台の上を大人数が動き回り、かつそれぞれが 役割を果たす計算をなされている流石の完成度だと感じました。ス トーリーは芥川龍之介の桃太郎を参考に、鬼の集団に人間の転校生 がやってくることからはじまる交流や葛藤が中心となっています。 表現の中心であろう異文化交流に伴う摩擦や戦争はこれからの私達 に強く関わってくる問題だと思いました。中でも、異なる集団同士 の争いといった単純な構図だけではなく、徐々に他集団が侵食して いく様子や、同じ集団内での排斥を扱われていたところに視点の深 さを感じます。ただ、物語は戦争による悲劇的な結末をみせるので すが、加害者の影があまりに見えない( 主人公やその家族は無意識にその手助けをしていたが、 それを責任とするようなつくりではない)、空爆に倒れる主人公の 女の子を抱えてこの子が何をしたと叫ぶなど、一方的被害者の悲劇 に終始しているのではないかとも感じました(だからこそ最後に歌 われるアメイジンググレイスは感動的なのかもしれませんが)

上演三番目、静岡県立伊東高等学校 「幕が上がらない」

映画化もされて有名な平田オリザ氏の小説「幕が上がる」を意識し たであろう作品。タイトルどおり、劇中の一時間、幕を上げること なく、緞帳前のスペースや花道、二階席で展開されていました。主 な内容は高校生達の置かれている日々の状況。それも、かなりネガ ティヴに捉えられた視点だったと思います。最後に挿入されている シェイクスピアやチェーホフの台詞(「人は泣きながら生まれてく る」「それでも生きていかなければ」)がその感を強くしました。 それらを積み重ねて提示してみせることで「幕が上がる」の「私達 は舞台の上でなら、何処までも行ける」という言葉を否定したかっ たのではないかと感じます。(「いや、何処までもはいけないし」 という台詞もあります)個人的にこのテーゼはチェーホフにはじま りベケットで完結した近代の終わりと重なるものがあって、今さら それを扱う意味は感じられないのですが、それを高校生が演じるま でに感じていることを見抜き、それを表現した手法の徹底について は評価されるべきものかと思いました。

上演四番目、北海道北見北斗高等学校 「常呂から(TOKORO curler)」

北海道常呂から、カーリングというスポーツを普及させるために尽 力した方をモデルにした作品だそうです。ストーリーはカーリング 普及のため躍起になる父親と、卒業を目前にして進路の悩みに揺れ る娘の衝突が中心。笑いある中にもしっかりと人間の姿が描かれて いて、好感のもてる演技でした。最後の場面で、それまで作り上げ た屋内のセットを解体し屋外雪上のリングを作り出す手腕、親子2 人でカーリングのポーズを取った瞬間、星球のきらめきで終わる表 現には胸が躍るものがありました。ただ、娘からみれば馬鹿げてい る父親を理解し、成長していくことが物語の中心にあると思うので すが、それを解決する手段が若干少なかったのかなという感があり ます。終盤に親子が身体をあたためる描写で父親は娘の成長を感じ 進路を委ねるのですが、それに対して娘が、 カーリングにこだわる父への理解に至る過程がもっとあればという 気がしました。

上演五番目、広島県立舟入高等学校「八月の青い蝶」

小説すばるの新人賞受賞作をもとにされた作品です。大戦末期の広 島で、軍人の子である少年と、父親の愛人で昆虫博士の娘である女 性との昆虫、蝶にまつわるやりとり、交流を描いた作品。まず一番 に、照明の使われ方が印象的な作品でした。浮かび上がる青い蝶や 女性の入浴を表す影絵、原爆投下時の黄色く染まる世界と影。舞台 装置も様々な場面の移り変わりを巧みに表現する工夫がなされ、舞 台美術賞にはふさわしいと感じました(阿波高校の技術もすごいも のがあると感じたのですが)ただ、場面場面は非常に美しさを感じ る反面、そこにおける人物の描かれ方はやや類型的、またはモノロ ーグに頼りすぎのきらいがあるかと思わされました。また、不遜な 言い方でないか心配なのですが、時間の都合上、少年の白血病や原 爆の議論など原作にある要素が薄くなってしまったせいもあり、 この1時間の作品内で戦争を扱う必要性・必然性が弱くなってしま ったのではないかと感じました。例えば女性は最後、少年との約束 を守って原爆により死亡してしまうのですが、これは病気でもよけ れば事故でも代替可能な死ではないのか、という気がしました。 原作がドキュメンタリー要素を持つ(本当は違うらしいですが)以 上仕方ないことかとも思うのですが。

今回の開催地が広島であり、広島代表の二校はいずれも戦争、原爆 を作品中に取り入れていました。(青森中央も扱っておられました が、これは現代の戦争でやや異なる部分があると感じます)戦争に 関して私は勿論経験していません。語るべき言葉もありません。語 るべき言葉がないことを語る「戦争を知らない子供たち」という表 現も、生まれる前の話です。戦争はテレビで見聞きしますが、 それで何をするといったこともありません。それらは全て、自分に とって、戦争に対するリアリティの無さにつながっているのだと思 います。今回、初めて広島の地を訪れ、原爆ドーム・平和記念資料 館に立ち寄ることができました。私には、自分を含めた日本人の多 くは展示物を一種歴史学習的な資料として扱い、むしろ外国人の観 光客が熱心に被爆者の体験に触れているように感じました。書物で 読んだ戦争に対する知識は多少なりともあるし、体験に触れて心が 動くこともあれば、演じることで体験することもできる。けれども それは許されることなのか、この疑問がずっとなくならないままで います。何故なら、仮想的に作られた悲劇と現実の戦争による悲劇 のどちらを追体験しても自分の心の揺れは、変わらないように感じ られるからです。同様に、創作において現実の戦争を扱う時、 それは果たして要素であって良いのかという気がします。 実際に被害を受け、苦しみつづけている方がいる中で、 創作する私が感じているものが仮想と変わらない戦争の悲劇的要素 だけだとすれば、それは許されることではないと思います。 だから私の戦争に対する誠実な向き合い方は岡田利規氏の「 3月の五日間」のようなものに終始してしまうのではないかと、 ずっと思い続けているのです。

そんなことを考えていると、最後に老人となった少年の独白にある 「記憶が風化し忘却していくことが歴史」という言葉が、自分には 強く響いてきこえました。現在が先の戦争が歴史になる過渡期なの であれば、せめてこの言葉をかみしめて、私は表現における戦争と 向き合っていかなければならないと思うのです。(その一方で戦争 は現在進行形でありつづけているのですが)

上演六番目、岐阜県立岐阜農林高等学校 「Is(あいす)」

最優秀賞にふさわしい、装置も演技もストーリー展開も、 高い技術を持っている非常にレベルの高い作品です。 全部見終わった時点で自分の中では、 最優秀は青森中央かここしかないと感じました。それほどに完成度 が高かった。農林高校でありながらバスケットに強く執着する少年 たち、父親との関係でバスケも名前も捨てている少女、登場人物そ れぞれの課題がひとつずつ明確にクリアされていくウェルメイドな ストーリーを、全体がいかんなく表現しきっていたと感じます。青 春を扱った良質なエンターテイメントの舞台でした。できればこれ だけの優れた表現を、もっと時間をかけて見たかった。 時間の都合が有るのでしょうが、台詞やストップモーションの見せ 方など、もっと強く長く楽しませる部分はあるはずだと感じます。 東京公演を楽しみにしたいと思います。

上演七番目、北海道清水高等学校   「その時を」

閉校が近い過疎地の少人数の高校に、転校生がやってくることから 変化がはじまるストーリー。素舞台の上で繰り広げられる、 役者の演技、身体表現がのびやかであり好感のもてる舞台でした。 ホタルや部活動、補習授業など、彼らが生きる北海道の「日常」 の描写が、 明るい空気のなかで展開されていくことが物語の中心にありました 。言い換えると、 起承転結の承に魅力的で重点にあったとでもいいましょうか、その 分ストーリーラインの進みが遅く、女の子の転校理由や、 それぞれの進路や挫折といった課題の解決が、 最後にバタバタと慌ただしくとじすぎた気がします。ただ、 最後にはさわやかなまとめ方がなされていて、 すっきりした印象にまとめあげられていました。

上演八番目、佐賀県立佐賀東高等学校  「ボクの宿題」

今回の全国大会で、劇中に泣いたのはこの作品だけでした。個人的 には入賞しなかったのが一番残念な作品です。30年後の未来につ いてという作文を書くことができない少年と、丁度30歳年上の父 親。この課題を解決するために、2人で少年の未来の話を( 父親にとっては過去の話を)たどっていくストーリー。このような 人生を俯瞰的にながめる視点のお芝居で「わが町」という名作があ り、またそれを下敷きにした「わが星」という作品もありますが、 それらに近しいものを感じました。対象を町や星ではなく、少年個 人に絞ったことでコンパクトに伝わりやすい仕上がりになっていま す。白いボックスと脚立以外何も無い舞台装置の中で、集団が光と 音と身体で人生の過程を見つめていく表現を見、その価値を思うと 、途中から自然と涙が溢れてきていました。ただ、間違いなく優れ た作品なのですが、だからこそ弱点も明確に感じられます。未来の 話を進めていく中で見えてきた、最大のハードルである「両親の別 居」という「現在の父親が抱える問題」をあまりに簡単に解決しす ぎた(身体表現を中心に行っていて、最後は解決した未来を歌いあ げて終わる)ところがとても残念に感じました。本をみると、ト書 きにはこの点をクリアするための必死の想いが伝わってくるのです が、残念ながらそれは舞台表現ではないし、また力技すぎる(父親 が過去を再度振り返ってその価値に気づくという)ではないかとい う気がしました。いずれにせよ、真摯にテーマに向き合った作品で あることに間違いありません。

上演九番目、埼玉県立芸術総合高等学校 「解体されゆくアントニン・レーモンド建築  旧体育館の話」

既成作品で、これのみが上演前に戯曲を読んで概要をしっている作 品でした。また、読んだ時点での上演イメージにかなり近い舞台で ありました。舞台は椅子と白い衣装の女性達のみのかなり抽象化さ れた世界。女子大の旧体育館を中心とし、 その場でにまつわる登場人物たちそれぞれの関係性の記憶を積み重ねて いく作品だと理解しました。この舞台にどのような意味を見出すか は観客自身によるのかもしれません。抽象化された女子大生のそれ ぞれが紡ぐ思い出に対して、私は独特の抽象化とダンスや光の効果 による美しい表現による切り取りであるという感想しか持てません でした。個人的には、それらを繋いで越えてくる普遍性がもっと欲しいという気がします。 見えている世界を表現するのは確かに演劇なのですが、 その見え方にまつわる自分自身をどこまで載せるのか、 そこをある程度以上曖昧にしたままの作品はずるいというか、 交流を拒否していて発展性がないと思うのです。

上演十番目、徳島県立阿波高等学校  「2016」 

舞台装置が文句なく凄いです。高い技術で荒れ果てた校舎裏の風景を再現しつつ奥から様々なギミックで人物が登場させ、また光による変化の美しさ、衣装の細部まで、できればバックステージを拝見したいと強く思った作品でした。話は30年前の高校で、チェルノブイリや学校崩壊などの姿と、現在である30年後の未来を空想で表現していく姿が平行してすすめられていきます。30年前の高校生が様々な問題を抱えながら生きてていく様子と、そのとき思い描かれていた30年後の輝かしいはずの未来の様子をおかしみと皮肉をこめて描かれた作品の基本構成には興味深いものがありました。実際に今我々が生きている30年後がどのようであるかを考えさせずにはいられない、優れた視点であると感じます。限られた上演時間の中で、そういったストーリーによる批判性がエンターテイメント性によって薄まってしまったことが惜しいと感じられました。

上演十一番目、和歌山県立串本古座高等学校 「扉はひらく」

近畿勢作品。近畿大会に行くことができなかったのですが、生徒な らではの力がある作品で、生徒ならではの荒っぽさも感じられる作 品でした。 普段は友人に合わせて自分を押し殺し付き合っているムラタと、 他と交流することが全く無いヤマグチ。2人がエレベーターにたま たま閉じ込められ、その中で自分の状況を告白し、 交流が進んでいくというお話。その手法や演技はストレートで、若 さという力を感じさせられます。 彼らの年代にとって友人関係はとても切実で、とても息苦しさを感 じる問題だというのを、力強く表現してくれた作品でした。 あえて言うならば告白から解決に至る過程は荒っぽく(他に人物が 出ないので難しいけれども)例えば展開の緒はムラタが友人関係へ の不安を吐き出してしまうことからはじまるのですが、ここは切実 な演技の説得力で乗り越えていたと感じます。そこから始まる二人 の交流については、おそらく、彼らのこだわりや願いや希望を、 物語にのせていったのだろうと感じました。モノローグではなく、 対話の形式で表現しきった(かなりその境界はきわどいですが) ところが、 この作品をここまで引き上げた要因ではないでしょうか。 ここに至るまで、きっと彼らなりに自分と向き合って物語を作り上 げていく困難な過程があったのだと思います。 生徒自身がこの本を創作し、創作脚本賞を受賞したことを非常に嬉 しく感じました。できれば、この脚本にある彼らの思いを踏まえた 作品づくりをしてみたいと思います。彼らは向き合い、告白し、 この作品を作り上げた。ならば、それに対してどう応えるかに非常 に興味があるのです。おそらく本当の勝負は、 閉じ込められることすらできないムラタとヤマグチの日々の中に、 そしてムラタが最後に朝焼けの海を見たいと告白したその先にはじ まるのだと思います。

上演十二番目、山梨県立白根高等学校 「双眼鏡」

今回の全国大会では唯一の一人芝居。 自分を引きこもりという一人の少女がお祭りの始まる時間を前に、 待ち合わせしたネットで知り合ったという人物を観客席の中から探 しつつ自分語りをしていくというのがおおまかなところです。 舞台上には積み重なった色とりどりのブロックと大きな時計が配置され、不思議な空間を作り出していると感じました。 その空間で不安を感じながらも少女が待ち人を探し続けるその発想は、 分かりやすく現代風にされた「ゴドーを待ちながら」のようであると感じました。「解体されゆく~」や「幕が上がらない」にもありましたが、自分の状況は(あるいは自分に見える世界は) こうです、と告白していくことを中心にする作品は、 それはそれで表現ではあるけれども、よほどその構成が巧みか、 斬新な視点か、手法や表現が優れているかでないと普遍性を失うと 思います。 逆に言えばそこをどう両立させるかが現在演劇がイデオロギーの喪 失以後ずっと未だに悪戦苦闘している地点だとも思うのですが。 その意味で双眼鏡で探しても観客席にもネットにも人が来ない (=変化や救いは訪れることがない) というのはわかりきっているので、劇の終盤、時間が過ぎても何者もやってこなかった少女の怒りや困惑、 失望でブロックを破壊する姿に、一種の切なさとして理解するも、それ以上に伝わるものはありませんでした。

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