2013年度全国大会 劇評

2013年度全国大会 劇評

文責:萩原一哉(淀川工科高校顧問)

 今年の全国大会は大阪市立鶴見商業高校「ROCK U!」の最優秀賞受賞という快挙で幕を閉じた。大阪としては追手門学院高校以来30年ぶり2回目、近畿代表としても3回目の受賞となった。そして、執筆時高校3年生だった作者趙清香さんも創作脚本賞を受賞した。

審査員講評のとき、平田オリザが語った「この芝居を上演してくださってありがとうございました」という言葉が耳を離れない。それは、鶴見商業と作者趙清香さんに対する最大の賛辞であったと同時に、この日本社会に対する痛烈な批評でもあった。

規律を重んじ民族の誇りを教えた朝鮮学校のなかで生き難さを覚えていたスナとミレ。2人は自由を求めて日本学校へ転校するのだが、そこには自由がだらしなさと身勝手さにはき違えられた世界が広がっている。大好きなスナを追いかけて転校してきたミレには、なぜスナが日本人の高校生に溶け込もうと必死になっているのか理解できない。居場所を失ったミレの心に孤独が顔を覗かせるのである。

平田オリザは演劇とは運命に晒されたものたちの対話であると捉えた。その意味で、スナとミレの自由をめぐる葛藤は、まさに対話性に満ちた劇的なものとなっていく。スナの生き様から見えてくるのは、自由は、だらしなさや身勝手さの真逆にあるのではなく、それらが混じり合ってしか存在しえないということだ。先に日本学校に転校したスナは日本学生のだらしなさや身勝手さを受け止めながら、自分らしく生きることの意味をつかみ取ろうとしていたのだろう。それに気がついたとき、ミレは日本学校に自分の居場所を見つける。私は私自身であって、誰のものでもない。そう思えたとき、あれほど逃げたかった朝鮮学校の仲間も、あれほど嫌悪していた日本人学生たちも、そして朝鮮人としての自分も、ミレは優しく抱きとめようとするのである。

平田オリザは「ROCK U!」を文句の付けどころのない、プロでも描けなかった作品だと言った。そしてもう一人の審査員乳井先生が「劇構造の向こうに、大きなもの(大切なもの)を感じさせる」と発言された。ぼくはその言葉に、去年の秋、コンクールで観劇したときの思いが重なった。

それは技術的なことではなかった。この作品を作り上げた鶴見商業の演劇部員たちと作者趙清香さんの誠実な思いから生まれたものだったに違いない。大学生のとき、在日の学生運動に関わっていたぼくは、在日学生たちの葛藤にどう向き合えばいいのか悩んでいた。在日朝鮮人に対する激しい差別のなかで、自分らしく生きようともがくかれらの姿に、ぼくは、ぼく自身の、学校が嫌いで不登校になった過去を重ねたりした。「ROCK U!」は、高校生だったぼくの苦しかった日々を強く打ちつける作品だった。ミレとスナの2人を日本人学生がどのように受け止めればいいのか。貧困な家庭環境のなかに生きていたアユという日本人学生の存在は、それを伝えてくれていたからであった。周囲に溶け込めず、学校を辞めようとしていたアユの最後の日々を、スナとミレは彩りのあるものに変えていくのである。2人の姿に救われたアユは、かつてのぼくだった。

今回の上演はオリジナルメンバーの半数が卒業し、昨年コンクールでは気がつかなかったことに目がいった。去年1年生だった部員の成長だ。幼く見えたミレが劇全体を引っ張るような強い演技に変わっていた。そして新キャストとなったスナの、ミレに負けないパワフルな演技に、この作品が2人の物語であるという印象を強くさせた。そして穂恵美や茗子たち日本人学生の言葉に、彼女たちが背負っている苦しさが伝わってきたことだ。それらは戯曲が持っている本来の力を、見事に表現していた。そして新キャストとなった1年生の姿である。ぎこちなさの残る彼女たちの演技から、ぼくは、生きることを求めて必死にもがく苦しみのようなものを感じた。1年生の演技がなければ、今回の芝居は成立しなかったのではないか、と思うのだ。

鶴見商業の上演した舞台は、そんなはかなくて、もろい、ぼくたちの生を強く、高らかに謳い上げるものだった。大阪の鶴橋で、在日朝鮮人に向かって「死ね」「ゴキブリ」と罵倒することを正義だと勘違いした日本人の運動が巻き起こるなかで、人間の柔らかな部分を限りなく信じようとするお芝居が生まれた意味は、本当に大きいと思うのだ。

 

今回の全国大会は長崎市公会堂で行われた。原爆投下から68年目の夏に上演された12本のお芝居は、そのいずれもが生きることの意味を問う作品だったと思う。

長野県の丸子修学館が上演した「K」(優秀賞受賞)は、フランツ・カフカの3つの小説を題材にしたコメディだった。生きることには意味がないという不条理な現実の上に成立するカフカの文学を、高校生らしい解釈によって、爽やかに上演されたのだが、小劇場の芝居を観ているかのような、造形美や身体表現にうっとりとさせられた。カフカが抱え持った困難を父子関係というエディプス・コンプレックスに収斂してしまったのは正直残念だったが、それでも最後の高校生が置かれた現実の困難をコロスで表現し、「こんな芝居なんて意味ないよ」と絶叫する場面は圧巻だった。あれこそカフカの世界だと思った。

宮城県名取北の「好きにならずにいられない」は、津波を受けた自分たちの経験をもとに描かれた作品だった。突然の告白に戸惑い、右往左往する少年を尻目に、次から次へとアタックを仕掛ける女の子。しかし、彼女の言葉は、彼女のものではなく、津波に飲まれて死んだ妹のものなのである。偶然にも生き残ってしまったという感覚に襲われるとき、私は、私自身の身体を、死んだ誰かのために差し出そうとするのかもしれない。私は、私自身のものではない。それは、被災という経験の上に生まれた透徹された思想なのかもしれないと思うのだ。

北海道北見北斗の「ちょっと小噺(ちょこばな)」(優秀賞受賞)は、落語研究部に所属する4人のモテない男子高校生を主題にした笑あり、涙ありの可愛らしい作品だった。落語に青春をかけた男の子たちがクラブ存続をかけてバレンタインの日に寄席を行おうとする。しかし、お客さんは誰も来ない。女の子には気持ち悪がられ、好きな子に振られる。そんなみじめな彼らが、閑散とした教室に作られた高座の上にのぼって、思い切り落語のセリフを叫び出すのである。「熊先輩、さっき言ったじゃないすか。辛いときに笑わせるのが落語だって」。綿密に組み立てられた劇構造の上に、人間の優しさを描ききった秀逸な作品だったと思う。

栃木県立さくら清修「自転車道行曾根崎心中」は、女子高生たちが自転車を漕ぎながら授業を受けるというシュールな場面で幕が上がる。自転車を漕ぐのは自家発電のためなのだが、そこにやってきた担任教師が黒い箱を「転校生の山田くん」だと紹介することから悲劇は始まるのである。次々に増えていく黒い箱は放射性廃棄物のメタファーでもあり、原発に従事する外国人労働者のメタファーでもある。そしてそれに反比例するように、クラスから次々と生徒が消えていく。審査員の今村修が「滅びの文学」と指摘した曾根崎心中が、やがてこの教室の通奏低音となり、破局を準備し始めるのである。この街に残ることをただ一人決意する主人公ノゾミの最後の言葉が、ホリゾントに写された満開の桜に浮かび上がるとき、ぼくたちは、原発事故以後、希望が絶望によって溺れかかる日本の現実にぶちあたるのである。

長崎県瓊浦「南十字星」は劇団四季の作品を脚色しなおしたものだった。インドネシアに進駐した日本軍のBC級戦犯たちの「戦争」と「戦後」を、全力で描いた作品には、見るものを圧倒するエネルギーがあった。大東亜共栄圏思想を無批判に描いていた点に違和感を感じたりしたが、それでも死の向こうに繋がる日本の戦後を描いたところに、観劇していた生徒たちは胸を打ったようだった。この作品が8月の長崎で上演された意味は大きい。

2日目最初の上演は広島市立沼田による「うしろのしょうめんだあれ」だった。広島の記憶を描くこの作品は、「かごめかごめ」のリフレインが不穏な空気を醸し出す場面から始まり、「私は誰なのか」という問いとともに、原爆の記憶が浮かび上がっていく静謐で美しい芝居だった。平和研究会の活動を嫌々していた少女が手に取った手記には、原爆を生き残ってしまった少女の痛みが描かれていたのである。舞台中央にのみ照らし出された薄暗い照明は、まるで少女の内面のようであり、その際にそびえる柱は卒塔婆のようでもある。リリカルな描写が過去と現在という二つの世界をつないでいくのである。芝居の冒頭、少女は幽霊のように周囲から見えない存在になっていた。だが終盤に描かれる日常は、クラスメイトから優しい言葉をかけられる。それは現実の人間関係を描いたというよりも、自己を愛すことのできない少女の不安な心の中のような、そんな印象を受ける。彼女にとって「うしろのしょうめん」とは、彼女に繋がる過去の歴史と記憶であり、それを抱きとめたとき、彼女は自分を取り戻していくのである。

三重県高田「マスク」は、低い声にコンプレックスを持つ少女アケミの葛藤が描かれた問題提起的な作品だった。低い声をごまかそうとマスクをつけていた彼女がマスクをとるところから芝居が始まる。しかし自分らしく生きること、自分に自信を持つことを、深い葛藤のなかで手にした彼女に、冗談半分でクラスメイトが流行らせたマスクが襲いかかる。同調圧力と言えばいいだろうか。次々とマスクをつける友人たちに一人抗おうとするアケミに「あなたの声は聞こえない」「アケミのトラウマなんてどうでもいい」という言葉が浴びせられる。そしてその苦しみのなかで彼女はふたたびマスクをつけてしまうのである。マスクとは何か。マスクをつけた後の無言の表情とは何か。芝居が問いかけるのは、その過剰とも言える演出のなかにある、壊れそうなほど小さな意思なのである。

東京都立東の「桶屋はどうなる」は、ゴキブリと放射性物質によって突然変異してしまった野菜との奇妙な友情を描いた作品だった。高校演劇の可能性を見せてくれた芝居だったと、思う。昆虫と野菜の対話と元気一杯のダンスとラップ調のセリフ回しが、人間の暴力的な現在を見事に浮かび上がらせていたし、自然のしたたかさを感じさせもした。部員が入らず2人芝居似せざるをえなかったことが、逆に作品構造をくっきりと際立たせていたのではないか。

徳島県立城ノ内「三歳からのアポトーシス」は戦後思想を代表する埴谷雄高の小説『死霊』に登場する「自同律の不快」と現代科学が問うた「自発的対称性の破れ」というテーゼをめぐる難解な作品だった。いくつもの解釈が成立する、重層的な世界を表現しながら、そこに浮かび上がらせていたのは「私が私であること」の不快だったにちがいない。震災以後、生きることの背後には、無数の死が累積している。私らしく生きようとする人間の小さな願いさえ、誰かの死の上にしか存在しえない。世界の均衡が破れたかのように、生は死とともに存在し、大地と切り離された人工的な世界のなかに閉じこもるしかできないのだ。運動会の日に転んで靴が脱げたエピソードが、上手のサス明かりに浮かび上がる運動靴によって芝居の通奏低音となっていく。そして最後に浮かんだ赤い花は、生と死のなかから生まれた生命の未来を指すのである。

3日目沖縄県立八重山「0(ラブ)〜ここがわったーの愛島(アイランド)〜」(優秀賞受賞)は、文化祭のクラス発表をどうするかという問題をめぐる、見事なコメディだった。抽象的で、メタフォリックな作品の多かった今回の全国大会のなかで、「七人の部長」を彷彿とさせるような、数少ないドラマ性を持ったお芝居のひとつだったと言っても良かっただろう。高校を卒業すればバラバラになるかもしれない生徒たちの、島を愛する思いやそれぞれの葛藤がストレートに伝わってきた名作だった。

最後の上演は島根県立出雲「ガッコの階段物語」だった。階段を上るように日々をやり過ごす高校生の日常性を、階段部という架空の部活動を通じて描き始めたこの作品はやがて、階段を上ることを止めてしまった少女ガッコの苦しみに寄り添うことから、ドラマ性を帯び始める。そしてその階段はガッコの記憶のなかで、津波を逃れ、生き延びるための階段だったことが明らかになる。そして階段の下に置いてきた仲間たちの姿が、舞台の上に浮かび上がってくる。階段部のメンバーは、かつてガッコとともに生きた仲間たちでもあった。生き延びることとは、他者の死の上に自分が生きていることであり、なぜ自分だけが生き残ってしまったのかという悔恨とともにある。死者たちがガッコをがんばれと励ますラストシーンは、美しく、けれど力強い生の讃歌なのだ。

上演12校を貫いて問われていたことは、生きることの意味だったのだろう。物語の力、演劇の力を見せつけた昨年の全国大会と比較すると、抽象的で難解な、ある意味でドラマ性を否定した作品の多かった今年の全国大会は、安易なヒューマニズムや物語による解決を批判しようとした、極めて思想的な作品に恵まれた。最優秀に選ばれた鶴見商業の「ROCK U!」や優秀賞の八重山、北見北斗は、それにもかかわらず演劇の力を信じてやまない高校生たちの、ひとつの信仰告白のようにも思えた。大阪の高校演劇は、精華「駱駝の溜息」とともに、演劇の力を信じるものたちによって、新しい歴史を踏み出したように思えるのである。

 

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